3.11 東日本大震災
東日本大震災、3.11
まずは、東日本大震災でお亡くなりになられた方々、ご遺族の方々
ご冥福を申し上げます。
そして、被災された方々、大変ご苦労され、たくさんの辛い思いをされたと思います。
今も被災から元の生活に戻れていない方々、今も辛くご苦労されていると思います。
でも、生きててくださりありがとうございます。
私は震災の日、税理士事務所のパートで働いていました。
14時46分、私の仕事場では小さい揺れから始まり、大きな揺れとなりました。
すぐに事務所においてあるテレビをつけました。
まだその時は、東北を中心とした地震という報道しかされていませんでした。
すぐに実家に電話したところ、電話が混線する前で実家の家族の無事が確認できました。
(お姑さんは病院に行っている時間だと分かっていたので、先に実家に連絡しました。)
その日のその時間、税理士の先生は顧問先に行っており不在、テレビから次から次へと流れてくる情報で、事務員3人早退することを決めました。
私はすぐにお姑さんの家に行き、インターホンを押しましたが、出ませんでした。
合鍵で中に入り、中の様子を確認しましたが、やはりまだ病院から帰って来ていませんでした。
お姑さんの家にカギをかけ、お姑さんが行っているはずの近所の病院へ向かおうとしていた途中でお姑さんに会うことができ、生存確認できました。
もう一度、お姑さんの家に戻り、落ちてしまっていたテレビをテレビ台に戻し、割れ物はお姑さんが片付けるということで、私は自宅に戻りました。
自宅は卓上に置いてあった観葉植物が落ちていただけで、何も被害はありませんでした。
旦那さんには電話が繋がらない、仕事中ということもあり、メールしましたが連絡はなかなか来ませんでした。
その間にお夕飯の買い物と思い、スーパーに向かいましたが、ほぼ全店臨時閉店。
唯一開いていた小さなスーパーでお夕飯の買い物をして、自宅に帰り旦那さんからの連絡を待ちました。
その間、テレビで状況確認していました。
押し寄せてくる津波の映像、電車が止まり帰宅困難で込み合う渋谷、新宿、その時にテレビ局で得られる情報を私は一人、目の当たりにしました。
その後、旦那さんからのメールが届きました。
旦那さんの会社は東京の南、自宅は東京の北、途中で渋谷や新宿を通ることになります。
旦那さんはその時の現状を知らず、私が報告し、旦那さんは帰宅することよりも会社で一夜を過ごす選択をしました。
私は自宅でテレビから流れてくる情報と緊急地震速報の音で、ほとんど眠れない夜を過ごしました。
翌日、電車が復旧してから旦那さんは帰ってきました。
ちょうど金曜日の地震、土日もテレビからの情報で被災情報を見続けました。
どんどん増えていく死亡者数、被災状況、胸がどんどん苦しくなる状況、それでも旦那さんがそばにいてくれたから、一人ではないので耐えられました。
でも、月曜日の朝、旦那さんが出勤し、一人でテレビで情報を見ている時のことです。
一人の母親が車の中で遺体で見つかりました。
それを見つけたのは、息子さんと祖父という現状をライブで見ました。
不妊症・不育症で子供がいない私が生きていて、申し訳ないと涙が止まりませんでした。
今から思えば、最初の流産から東日本大震災の影響で私は抑うつになっていたのかもしれません。
人前では決して泣きませんでしたが、家ではよく泣いていた記憶があります。
それを旦那さんはいつも優しく見守ってくれていました。
これが私の3.11 東日本大震災の記憶です。
東日本大震災の時、「絆」という言葉が発信されました。
現在、新コロナウィルス
今の「絆」はステイホームだと思います。
皆さんの命は自分一人の命ではありません。
新コロナウィルスに打ち勝つためにも、「絆」ステイホーム
よろしくお願いいたします。🙇