結婚生活
今日は2020年7月7日🎋
旦那さんが生きていれば、15回目の結婚記念日です。
今まで結婚生活で起きた色々なことを書いてきましたが、今日は旦那さんとの楽しかった結婚生活を書こうと思います。
旦那さんはとても頭が良くて、私のできないことを手伝ってくれたり、多趣味でした。
パソコンの設定
テレビや通信機器の配線
物の配置
車の運転
お城や歴史
園芸
旦那さんとの共通の趣味は
音楽
ドラマ・映画鑑賞
カラオケ
お酒
旦那さんは年末、高校時代からのお友達との飲み会以外は大掃除を手伝ってくれました。
大掃除が終わると私はお節料理作って、旦那さんはお節料理の味見をしながら、お笑い番組を見てお酒を飲んで、大笑い😆
笑い声が聞こえなくなるとイビキが聞こえ始め😪
元旦はお姑さんの家にお節料理を持って行き年始の挨拶と食事、2日には私の実家にお正月だけの贅沢日本酒を持って電車で行きました。
ゴールデンウィークとお盆は運転大好き旦那さんとドライブ貧乏旅行
車中泊は当たり前😓
でも、旦那さんはとても運転が上手くて、私は旦那さんとのドライブが大好きでした。
旦那さんはとにかくマメで優しい人でした😍
12月初めにはお姑さんと私の実家の年賀状を作ってくれました。
私が風邪の時はお粥を作ってくれました。
私の簿記試験の時は夕飯を作って待っててくれてました。
私が生理痛の酷い時は、腰を擦ってくれました。
私が残業で旦那さんのほうが帰りが早い日はお惣菜を私の分まで買って起きて待っててくれました。
ただ一つ嫌だったことは、夕食時間に掛かって来るお姑さんからの電話対応でした。
温かいうちに食べてほしいのに、話を聞き続けて夕飯が始まらない。
しまいには、お姑さんが何度も同じことを話すので旦那さんがキレる😩
そのあとは必ず私が電話を代わり、なるべく早く電話を切るようにお姑さんの話を聞かなくてはいけなかった・・・😭
そして、冷めてしまった食事をすることになる・・・
なぜ一言「これから夕飯だから、あとで電話かけなおす」と言えないのが嫌でした。
そして、結婚して9年目に転機が来てしまいました。
まず、一つ目はガラケーからスマホに買い替えをしたことから始まりました。
旦那さんがゲームが苦手な私でもできるゲームがあるから一緒にやろうということになり、そのゲームに私がハマってしまったこと・・・
それから、ミュージカルの学校時代の飲み会でA子ちゃんに再会し、たまに会うようになったこと・・・
このことで人生が狂うとをその時は全く気がつきました。
その話はまた次回以降のブログに書こうと思います。
結婚生活は同じものを見て、聞いて、体験する。
それだけで一人では感じることのできない、大好きな旦那さんと二人で感じる楽しさを経験することができました。
それは今でも私にとっての宝物のような時間です。
だから、私は旦那さんが一生懸命に生きていたこと、自殺者遺族でもいつか笑顔で生きていけることを残したいと思い、このブログを書き始めました。
私が生き続ける限り、私の心の中の旦那さんは思い出だけでも生きている。
改めて、私は生き続け寿命を全うしようと思います。
旦那さんの転職 2回目
旦那さんが業務委託先の社員になって3年になろうとしていた頃、前の会社が業務委託を辞めて前の会社に仕事を戻すという話になりました。
理由は業務委託先でのミスが多かったこと、採算が合わないことでした。
そういう話が出ていることは前の会社で旦那さんを気に掛けてくれていた社員さんから、飲み会に誘われ旦那さんは聞いていました。
旦那さんも前の会社に戻れるという話もその飲み会で聞いていました。
飲み会で前の会社の社員さんから、「会社に振り回されたんだから、ちゃんと交渉して納得する給料にしてもらいな」と応援してもらいました。(*^▽^*)
実際に仕事のことをきちんと理解しているのは、旦那さんしかいないことになります。
前の会社に戻ってどのような人員で仕事をしていくのかは分からない。
旦那さん一人で新しい人に仕事を教えながら、仕事をするのはとても厳しいと、私は思っていました。
業務委託先にアルバイトのK君という男の子がいました。
K君はお母さんと二人暮らしで稼がなくてはいけなく、前の会社の仕事が終わると他の業務委託の仕事をして、毎日遅くまで仕事をしていたそうです。
旦那さんはそのK君を前の会社に引き抜きたいと思ったそうです。
そうすれば、K君は社員となり、生活も安定する。
ハッキリ言って、旦那さんは交渉下手でした。
なのに、旦那さんの給料交渉とK君の社員交渉、私は心配でした。😓
そして、交渉日が来ました。
結果までドキドキ:;(∩´﹏`∩);:
そして、結果はK君の社員交渉は成立🙌
旦那さんの給料は前回働いていた時とほぼ同額🤔
旦那さんは少し不満気でしたが、私は苦手な交渉を良くやったなと思いました。👏
もう子供も諦めていたし、私も働くから充分暮らしていける。
それだけで、充分だと私は思いました。
そして、旦那さんは49歳にして転職することになりました。
今となってはこの転職が旦那さんにとって、良かったのかどうかは分かりません。
ただ、当時の私達夫婦の生活にとっては良かったことだと思いたいです。
お舅さんの死
過去から現在までの順番でブログを書いているのですが、すっかり忘れておりました。💦
結婚して1年目くらいに、お舅さんが食道がんだとお姑さんから聞きました。
元々、旦那さんが生まれる頃にお舅さんは胃の病気でほぼ胃を摘出していたそうで、もう手術はしたくなかったらしく、食道がんの手術はしないということでした。
旦那さんと私は以前ブログにも書きましたが、色々あり疎遠になっていました。
(参照:結婚までの道のり~その壱~ https://comari-egao.hatenablog.com/entry/2020/02/12/192119)
お舅さんが東京のJ大学病院に検査入院することを聞いたお姑さんは「もう会えないかもしれないからお見舞いに行きたい」といい、旦那さんと私はお姑さんをJ大学病院まで車で送りました。
旦那さんは会いたくないという理由でお姑さんだけが会いに行きました。
それがお姑さんとお舅さんが会った最後の日となりました。
その後、お姑さんは電話でお話しはしていたようで、お舅さんは漢方薬での治療をしていたようです。
記憶は定かではないですが、その3年後にお舅さんはお亡くなりました。
それを知ったのは、旦那さんの弟さんに後妻さんから、死後10日後に電話で連絡が来たそうです。
たぶん、遺産相続人が旦那さんと弟さんと後妻さんになるので、連絡してきたのだと思います。😡
お姑さんは覚悟はしていたと思いますが、亡くなって10日後という連絡が遅いのことに加え、お墓の場所など教えてもらえる訳もなく、少し悲し気でした。
お舅さんの死から、1ヵ月過ぎた頃、突然お姑さんから旦那さんの為に貯金していたお金が200万円くらいあると言われました。
私は内心「マジか、それがあれば借金返済に苦しまなくて良かったのに・・・」と思いました。(゜o゜)
(参照:借金返済 https://comari-egao.hatenablog.com/entry/2020/02/18/141246)
この一連の出来事があった時、旦那さんは前の職場で私は税理士事務所のパートをしている時でした。
一番気持ちに余裕があった時だったと思います。
旦那さんはただただお金のことを喜んでました。
でも、私は少し複雑な心境でした・・・
旦那さんはお金があると思うとアレコレほしがるだろう・・・
お姑さんはお舅さんのお墓参りもできない。
何か供養のために使えないだろうか・・・🤔
私は旦那さんに「お姑さんのために、お舅さんの供養ができるお墓を作ってあげない?」相談しました。
旦那さんは思いのほか快諾してくれました。(*^▽^*)
そして、まずは霊園を探しました。
とても、都内の霊園は金額的に難しく、自宅から近い埼玉の霊園を見て回りました。
数件、見た中で一番環境が良く、霊園と公園が一緒になったような場所を見つけることができました。
そこの霊園は普通のお墓ではなく好きなデザインのお墓が作れるということで、霊園が決まりました。
旦那さんはデザインや絵を描くのが好きでした。
墓石の担当者の方もとても良い人で、旦那さんは変わったデザインをイメージしていたので、「パンフレットに写真を掲載させて頂ければ割引させて頂きます。」と予算内で霊園費用と墓石の費用が収まりました。(^_^)v
お舅さんの遺骨はありませんが、一周忌法要ができるように準備を進めました。
遺影もなかったので、昔のお舅さんの写真を拡大して作りました。
旦那さんと私がお姑さんにできる親孝行
そして、お舅さんの命日、無事に一周忌法要ができました。
それからは毎年、春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸、命日に近い日の日曜日、お姑さんを連れてお墓参りをして供養しました。
旦那さんも自分がデザインした墓石に大満足😄
でも、その数年後、一番最初に納骨されることになったのは旦那さん
自分でデザインしたお墓に入れて満足してるかな・・・
今はどこかで見守ってくれているのかな・・・
私はそんな想いを胸に、今年も旦那さんの命日にお墓参りに行きました。
不妊症・不育症 治療なしのその後
旦那さん、46歳での転職
私、37歳での転職
生活でいっぱいいっぱいでした。
お互いに子供が欲しかったのでセックスはしてました。
でも、私が不妊症なかなかできるわけもなく日々は過ぎていきました。
もう一度、不妊症・不育症の治療も考えました。
でも、ホルモン治療をしながら、私がフルタイム派遣でのお仕事は、ホルモン剤の副作用で私の体が辛くなる。
(不妊症と不育症 3月25日更新分
https://comari-egao.hatenablog.com/entry/2020/03/25/203922 をご参照下さい。)
多分、フルタイムでお仕事が出来なくなる。
↓
生活が出来なくなる。
↓
子供がもしできても産めるのか・・・
↓
今子供が出来たとして、成人するまで育てられるのか・・・
考えはネガティブループになっていきました。(+_+)
世の中では不妊治療の認識が広がり、不妊治療で生まれた芸能人の子供の話題が流れ始めた頃でした。
お金もない、不妊症・不育症、悩みました。
派遣のお仕事がない時期、昼間外に出ると子供連れの親子を見るのが辛かった。
どうしよう
子供ができないのは私の不妊症・不育症せいと自分を責めました。
そして、2年後
旦那さん、48歳
私、39歳
私は泣きながら、旦那さんに
「子供は諦めよう」と伝えました。
旦那さんは納得がいかない様子でした。
私も納得できてはいなかったけど、現実的にもう無理だと考えました。
それからはセックスの回数も減り、ほぼセックスレスとなりました。
私はその他のことで旦那さんと充実した人生を送れれば、普段は強面の旦那さんが私の前では笑顔でいてくれれば、と思いながら生活を送りました。
でも、納得できないでいると人生の歯車が狂ってくるんですね。
不妊症・不育症の体で生まれた自分を責める。
お姑さんから、「まだ諦めなくてもいいんじゃない」という言葉が心に突き刺さる。
昼間外に出ると子供連れの親子を見るのが辛くて、なるべく夕方に買い物をする。
辛さをお酒とタバコで紛らわす。
辛さを忘れるために、お仕事に集中する。
自分の本当の笑顔が消える。
人に優しくできない。
楽しんでるはずなのに、心のどこかが寂しい。
そんな日々が続きました。
あの頃の私の納得できないまま生活はすごく苦しかったです。
なので、みなさんには自分が納得できるまで、なるべく前を向いていてほしいと思います。
私の転職
旦那さんの転職に伴い、私も派遣社員でフルタイムで働くようになりました。
(昔の派遣社員は交通費が時給に含まれると理由からなるべく自宅から40分圏内でお仕事をしていました。
※2020年4月から派遣法が変わり、交通費は別途支給されるようになったそうです。)
生活は忙しくなりました💦
6時30分 起床
洗濯機を回す
お弁当作り
洗濯物を干す
7時30分 旦那さん出勤のため、家を出る
自分の出勤準備
8時 出勤のため、家を出る
9時 お仕事
12時 休憩
13時 お仕事
18時 退勤
19時 お買い物
19時30分 帰宅
洗濯物を取り込む
19時40分 夕食とお弁当の下ごしらえ
20時10分 お風呂に入る
20時30分 お風呂から出る
洗濯物をたたむ
21時 旦那さん帰宅
夕食作り
21時10分 旦那さんお風呂に入る
21時40分 旦那さんお風呂から出る
食卓準備
21時50分 テレビを見ながら、お夕食
22時 食器洗い
22時20分~ 自由時間
23時30分 就寝
そして、だいたいこんな感じの平日を過ごしていました。💦
共働きの主婦って大変だと思いました。
まだ、子供がいないだけ楽だったと思いますが・・・
そして、私は人間関係がうまく築けず、何回も派遣先を変えました。(◞‸◟)
1回目:3ヵ月
社団法人の経理事務
元々、簿記1級を持っていた社員の退職で簿記3級の私にはとても難しいお仕事なのに業務時間内は暇で退勤時間前になると突然お仕事が来るという・・・お仕事でした。
そして、私の直属の社員さんが他の社員からイジメを受けているという環境でした。
私はプレッシャーと環境が合わないことで、サザエさん症候群ならぬちびまる子ちゃん症候群になり退職しました。😓
2回目:1年2ヵ月
空調会社の経理事務補助・一般事務
期間限定のお仕事で職場環境はとても良かったです。
お仕事も適度にあり、残業もなかったです😀
でも、あくまでも期間限定で終了しました。
3回目:7ヵ月
学校法人の経理事務
暇・暇・暇・暇
お仕事を増やしてほしいとお願いして、増やしてもらっても
暇・暇・暇・暇
暇に耐えられず退職しました。😓
4回目:1年4か月
大手通信会社の孫会社の業務委託
業務委託だったため、基本は経理事務でしたが、庶務業務、総務業務、何でもありの職場でした。
私が入ったばかりのころは、業務がメチャクチャな状態でした。
でも、そこで私よりも先に働いていた尊敬できる同僚の女性に出会うことができました。
リーダーはいましたが、ほぼ使い物にならず、尊敬できる同僚の女性と何とか業務を立て直そうと働きました。
しかし、尊敬できる同僚の女性の時給は上がらず、彼女はお仕事を辞める決心をしてしまいました・・・
彼女がいないと仕事が回らなくなる。
そして、少し体調不良があった私は絶対に体を壊すと思い、彼女が辞めた1か月後に退職しました。😓
5回目:3ヵ月
短期派遣だったので、そんなにお仕事に踏み込むこともなく契約満了😁
辛かったのは清掃会社が入っていなかったので、アレルギーが酷かった😓
6回目:6ヵ月
会計事務所での業務委託
とても働きやすく、派遣会社は違いましたが仲良くなれた同僚もいました。😀
この仕事を辞めた理由は・・・また今度ブログに書きます💦
4年間で6社の転職
我ながら長続きしない・・・^_^;
反省しつつ、なかなか自分に合うお仕事はないものだと実感しました😓
そして、いつも「派遣社員はアルバイトみたいな者だから、無理ならば辞めなさい」と言ってくれた優しい旦那さんに感謝です。
旦那さんの転職 1回目 ~旦那さんの受難~
以前のブログにも書きましたが、旦那さんは私と結婚するためにお仕事を決めてくれました。
それが旦那さん38歳
職場環境にはあまり馴染めてなかったのに働いてくれていました。
本当に感謝です🙇
それが務めて8年目、旦那さんが働いていた部署が会社の移転で業務委託されることになりました。
(; ・`д・´)
旦那さんは業務委託先に出向ではなく、転職するように会社から言われました。😱
どう考えても給与は下がる。
環境は良いはずがない。
(ノД`)・゜・。
旦那さんは業務委託先に転職したくないと言いました。
当時の私は旦那さん46歳でハローワーク転職で新しい仕事というのは生活のことを考えると厳しいと業務委託先に転職することを、私はお願いしてしまいました。
(今はらば、頭が良かった旦那さんに勉強してもらい転職、もしくはフリーランスでのお仕事と言えたかもしれませんが、当時の私にはその知識がなかったのです。)
優しい旦那さんは仕方なく、業務委託先へ面接に行き、業務委託先への転職が決まりました。
給与は前の会社と同等の給与だと言われましたが、私も旦那さんも信用していませんでした。(´-ω-`)
私は生活のことを考え、大好きだった税理士事務所のパートを辞めて、フルタイムで派遣社員へ転職することにしました。
そして、不妊症・不育症の治療も諦めました。😢
そして、初給料日・・・
給与明細みてビックリ(゚ロ゚屮)屮
高卒初任給😱
旦那さんは基本無駄な残業はしないタイプ
会社の業務委託以外のお仕事はしないタイプ
普通にお仕事して、高卒初任給😱
ブラック企業でした。
その時は、私がフルタイム派遣社員で働いていて良かったと思いました。
でも、旦那さんのプライドは傷ついていたんだと、今になって思います。😢
先ほども書きましたが、今は色々な働き方があります。
私が後悔してるのは旦那さんに合った働き方をさせてあげられなかったことです。
今、ブラック企業という会社や自分に合わないお仕事をされている方々
じっくり考えて、自分の人生の選択をして下さい。🙇
そうすれば、違った未来を描けるかもしれません。
旦那さんの未来がない今、私はこのブログを読んで下さっている方々が笑顔でいられることを望みます。
3.11 東日本大震災
東日本大震災、3.11
まずは、東日本大震災でお亡くなりになられた方々、ご遺族の方々
ご冥福を申し上げます。
そして、被災された方々、大変ご苦労され、たくさんの辛い思いをされたと思います。
今も被災から元の生活に戻れていない方々、今も辛くご苦労されていると思います。
でも、生きててくださりありがとうございます。
私は震災の日、税理士事務所のパートで働いていました。
14時46分、私の仕事場では小さい揺れから始まり、大きな揺れとなりました。
すぐに事務所においてあるテレビをつけました。
まだその時は、東北を中心とした地震という報道しかされていませんでした。
すぐに実家に電話したところ、電話が混線する前で実家の家族の無事が確認できました。
(お姑さんは病院に行っている時間だと分かっていたので、先に実家に連絡しました。)
その日のその時間、税理士の先生は顧問先に行っており不在、テレビから次から次へと流れてくる情報で、事務員3人早退することを決めました。
私はすぐにお姑さんの家に行き、インターホンを押しましたが、出ませんでした。
合鍵で中に入り、中の様子を確認しましたが、やはりまだ病院から帰って来ていませんでした。
お姑さんの家にカギをかけ、お姑さんが行っているはずの近所の病院へ向かおうとしていた途中でお姑さんに会うことができ、生存確認できました。
もう一度、お姑さんの家に戻り、落ちてしまっていたテレビをテレビ台に戻し、割れ物はお姑さんが片付けるということで、私は自宅に戻りました。
自宅は卓上に置いてあった観葉植物が落ちていただけで、何も被害はありませんでした。
旦那さんには電話が繋がらない、仕事中ということもあり、メールしましたが連絡はなかなか来ませんでした。
その間にお夕飯の買い物と思い、スーパーに向かいましたが、ほぼ全店臨時閉店。
唯一開いていた小さなスーパーでお夕飯の買い物をして、自宅に帰り旦那さんからの連絡を待ちました。
その間、テレビで状況確認していました。
押し寄せてくる津波の映像、電車が止まり帰宅困難で込み合う渋谷、新宿、その時にテレビ局で得られる情報を私は一人、目の当たりにしました。
その後、旦那さんからのメールが届きました。
旦那さんの会社は東京の南、自宅は東京の北、途中で渋谷や新宿を通ることになります。
旦那さんはその時の現状を知らず、私が報告し、旦那さんは帰宅することよりも会社で一夜を過ごす選択をしました。
私は自宅でテレビから流れてくる情報と緊急地震速報の音で、ほとんど眠れない夜を過ごしました。
翌日、電車が復旧してから旦那さんは帰ってきました。
ちょうど金曜日の地震、土日もテレビからの情報で被災情報を見続けました。
どんどん増えていく死亡者数、被災状況、胸がどんどん苦しくなる状況、それでも旦那さんがそばにいてくれたから、一人ではないので耐えられました。
でも、月曜日の朝、旦那さんが出勤し、一人でテレビで情報を見ている時のことです。
一人の母親が車の中で遺体で見つかりました。
それを見つけたのは、息子さんと祖父という現状をライブで見ました。
不妊症・不育症で子供がいない私が生きていて、申し訳ないと涙が止まりませんでした。
今から思えば、最初の流産から東日本大震災の影響で私は抑うつになっていたのかもしれません。
人前では決して泣きませんでしたが、家ではよく泣いていた記憶があります。
それを旦那さんはいつも優しく見守ってくれていました。
これが私の3.11 東日本大震災の記憶です。
東日本大震災の時、「絆」という言葉が発信されました。
現在、新コロナウィルス
今の「絆」はステイホームだと思います。
皆さんの命は自分一人の命ではありません。
新コロナウィルスに打ち勝つためにも、「絆」ステイホーム
よろしくお願いいたします。🙇