笑って生きていく~自殺者遺族~

自殺遺族と精神疾患・流産・不妊治療・不育治療など病気について経験したこと

プロポーズまでのお話し

私は東京の田舎下町で生まれ育ちです。

両親と祖母と兄と姉と暮らしていました。

 

実家は自営業で、幼いころから繁忙期にはよく仕事を手伝わされました。

 

両親はとても仲が良く、80歳を超えた今でも一度もケンカをしたことがありません。

 

祖母は父が0歳の時に夫を亡くし、経理のお仕事をしていましたが、一緒に暮らしていた頃は年金暮らしで、パチンコとタバコ(-。-)y-゜゜゜が趣味でした。

 

は長男ということもあり、父親からプレッシャーをかけられて育ち、中学の時にはイジメにあっていたようです。

 

は4歳の時に私が生まれて、母親を奪われたという思いが強かったみたいで、とても社交的で要領が良いがです。

 

はそんな姉にからかわれながら、とても内気で赤面症で泣き虫な子供に育ちました。

今でも覚えているのは、幼稚園の入園式で母から離れるのが嫌で大泣き。゚(゚´Д`゚)゚。

幼稚園の入園写真には私の隣にだけ母が写っています。

早生まれだったため、何をやるのも遅く、体力のない子供でした。

 

 父の兄である叔父大人の事情で会社の手伝いをすることになり、小学校入学前に一緒に暮らし始めました。

私は祖母と叔父と一緒にいることが多かったです。叔父はとても明るく陽気な人で、お仕事が終わると私をドライブに叔父は連れて行ってくれました。

昔のカセット型のカラオケを気持ちよさそうに歌い、お夕飯には焼酎の一升瓶を片手に食事をしていました。

私は叔父の笑顔が大好きでした。(^ω^)

大好きだった叔父も小学3年生の時に祖母と一緒に帰郷してしまいました。

 

私の小学校生活は、給食が美味しくなく、お昼ご飯はほとんどパンと牛乳の生活で、大人になった今でも少食なほうです。😅

 

小学校の時に印象的だったのが、姉から言われた一言「泣いてもどうにもならないからね」(×_×)それから、私は泣くことを堪えながら、育ちました。

 

兄は私の中でのヒーローです。😻

中学に入ると吹奏楽部に入り、一年生の年に『ゴールド金賞』を取ったのです。

 私も中学に入ったら、吹奏楽部に入部すると思いながら小学校生活を送っていました。

 

内気で赤面症の私が小学校3年生の時に、夏休みの自由課題発表があり一生懸命調べたことを何とか終えると、担任の先生から褒められました。その時の充実感が今も忘れられません。それで赤面症を克服できました。

 

 中学になると、憧れの吹奏楽部に入部しました。楽器決めの日、私用のため参加できず、翌日残った楽器の中から体の小さい私はアルトサックスを選びました。

当時の部活は先輩が強く、上下関係が厳しかったです。でも、私は楽器の練習が大好きでそれだけで充分でしたが、コンクール前にアルトサックスの先輩が退部してしまい、急遽1年生でコンクールに出場することになってしまいました。💦

 

不思議なものですね、極度の緊張でコンクール前日に初めての生理が始まりました。😰

内気な私はなかなか母に打ち明けられず、夜遅くに母に意を決して伝えると母が使っていたサイズの大きいショーツとナプキンを渡され、それでコンクールに出場することになりました。😂

 

 吹奏楽部は春は入学式、体育祭、夏はコンクール、秋は文化祭、冬は卒業式、ほぼお休みがなく、あっという間の3年間でした。

 

勉強に関しては、要領の悪い私を心配した母が英語と数学の塾に通わせてくれました。ただ、問題だったのが国語の成績でした。

高校でも吹奏楽を続けたかったので、吹奏楽のある公立高校を志望していたのですが、国語の成績が悪く、塾の先生も心配してくれて、私だけ塾で国語を教えてもらっていました…(・・;)

それでも、国語の成績は上がらず、吹奏楽部のない姉が行っていた高校に進学することになりました。(;゚Д゚)!

 

 公立高校に無事に入学しましたが、文科系の部活に興味が持てず、運動音痴な私が何故か体操同好会に入部しました。体は硬かったですが、踊ることは好きなので何とか部活に馴染むこともでき、内気な性格も徐々に明るくなりました。

 

しかし、運動音痴が運動をすると・・・

 

高校1年の文化祭イベントで左大殿筋の肉離れ、高校2年の時はゴミ袋を飛び越えようとした時、ゴミの中の瓶に着地で左足捻挫、高校3年ハンドボールの授業でハンドボール部の友達が投げた強いボールで左薬指突き指、年に1回はケガということになりました。(>_<)

 

 高校卒業後の進路は音響の専門学校を希望していた私でしたが、まだ頑固親父だった父に反対され、試験が論文だけの福祉専門学校で健康福祉科を受験し進学しました。

 

 頑固親父の父は強制的に運転免許も取るように命令され、行った教習所の適性検査では適性が低い・・・やっぱり運動音痴と改めて実感しました。

父親が教習所の料金を支払う約束になっていたので、何回も教習を受けて、やっとの思いで免許証取得しました。

今では写真付きの身分証明書として使ってます。(´∀`*)ウフフ

 

 専門学校では、運動療法とレクレーションをメインで勉強してました。あとは殆ど覚えてません。

 

 ちょうどばバブル崩壊のころで、実家のお仕事も影響を受けて、週末はコンビニでアルバイト、学校以外の空いてる時間はほぼ実家のお仕事の手伝いでした💦

 

 実家のお仕事が大変だったことをいい事に、私は就職せずフリーターになりました。

やりたかったことがあったからです。それは、歌とダンスでした。

一か所で歌とダンスができるという理由で、夜学のミュージカル専門学校へ通いました。

私がやりたかったのはミュージカルのアンサンブルダンサーでしたが、身長146センチではアンサンブルダンサーは無理と入学してから、気が付きました😢

 

20歳になってから、歌・ダンス・お芝居は根性が必要と言われてました。

自分がやりたいと思って始めたこと、途中で諦めたくないと最後まできちんと通いました。

 そこでは、根性論でした。練習で120%、本番で100%、20%の気持ちの余裕を作ると教えられました。

辛かったけど、今ではとても充実した楽しい思い出です。😀

 

 それからは、アルバイトをしながら、舞台のオーディションで落ちまくり、たまたま合格した舞台で知り合った仲間とオリジナルのミュージカル舞台を作ったりしてました。ただただ根性でした。

 

でも、20歳後半にもなると根性ではどうすることもならない身体とセンスの無さの限界が見えてきました。

 

 29歳、そんなときにインターネットで知り合ったのが旦那さんです。

私は卵巣嚢腫で無職、旦那さんも色々あって無職。

時間はたくさんあったので、メールでたくさんお話ししました。

そして、旦那さんと会うことになり、旦那さんの車で初ドライブデート💖

一人暮らしが長かった旦那さんは、実家暮らしで何もできない私にとって尊敬できる人でした。

 

旦那さんは39歳、就職活動も上手くいかず、旦那さんが大嫌いだったお父さんが長野でしているお仕事に就職し、長野に引っ越し遠距離恋愛になりました。

旦那さんには借金があり、働かなくてはいけなかったんです。😢

 

会えるのは月2回、でも旦那さんの借金は減らず、私は決心しました。

旦那さんに「借金を結婚して二人で返していこう」と私が逆プロポーズしました。(〃'▽'〃)